STORY

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鹿児島県 屋久島町 白谷雲水峡より

「屋久島(の現象)を求めて」

「一ヶ月に三十五日雨が降る」

そう表現されるのは、鹿児島県の離島、屋久島だ。屋久島には、樹齢何千年の大木とともに、六百種以上もの苔が生息している。途切れることの少ない雨。その雨を栄養分とする屋久島の苔たちは、石に拡がり、巨木の幹や枝にまで生息の範囲を拡げ、繁茂している。屋久島での体験を端的に言い表すことは難しい。しかし、気候、植物、大地とそれを感じる自分自身が一体となれるような、そんな法悦な喜び、ダイナミズムの魅力が存在している、そんな不思議な体験をした。

その事物事象との一体的な魅力は、屋久島を離れた京都の作庭術においても垣間見ることができた。西方寺の苔庭もそのひとつだ。日本の先人が自然とともに育んだ感性を拠り所としながら、自然と人為の融和する感覚を高度な技術として昇華さているのがその庭の特質だ。そこにはドイツの文豪ゲーテが語るような、「高次な自然」が、つまり自然と人為の肉迫した同期性が、生きたままに存在しているのだ。

しかしながら現代の日本の経済の発展とテクノロジーの進歩は、自然との魅惑的な一体感を求め、つくり上げているというわけではない。都市開発では、スクラップアンドビルドによって、庭は減退し、旧来型の建物は次々と破壊され、合理性と効率性、無機質性と量販性が私たちの環境を数十年で決定的に変えてしまった。それは現代社会の特徴でもある人間と自然の乖離、分離現象そのものを映してるようだ。

はたしてそのような環境下で、自然と人為の融和する感覚をもう一度掘り起こすことはできるのだろうか。光、水、苔、天候、大地、季節とともにある作庭術のような自然との叡智を、現代のテクノロジーとともに建築設計や環境デザインに見出ことはできるのだろうか。

私はその問いを自らの取り組みとして、答えを探し求めた。

私はそのひとつに、苔のような触覚と色彩の魅力を同時に合わせ持つようなテクノロジーとして、「塗装」のなし得る現象性に着目した。現代の塗装技術を駆使し、工程上に生じる偶発的な現象を、苔が生え出たように、何度となく樹脂と顔料の配合を変え、熱量のタイミング図り、苔色の現象を探しつづけた。

そして、「Filmy Nature(塗膜の中の自然)」というコンセプトが生まれた。

塗膜の中の現象性は、ひとつには芸術としての絵画のような完成度は必要かもしれない。が、しかし、塗膜としての保護機能、色彩としての名前(概念)を生み出すことにも注視した。なぜならそれは、美術館におさめるための芸術品としてのオブジェに留まりたいのではなく、環境デザインや生活空間を豊かにできる、植物ような感覚がより近いと思っていたからである。塗膜の現象は壁にも床にも屋外にも、「苔のように」偏在できるはずなのだ。

ゲーテの色彩論においては、色彩とはまさに「光の行為」だ。ゲーテはそれを「語りかける自然」とも表現しているが、自然と人為の融和する現象と発展に、屋久島のダイナミズムや京都の作庭術があるとすれば、「Filmy Nature」は、現代社会と自然との融和点を探る新たな色彩術として進化させることはできないものか、、。

その渇望が、私たちと自然との間に失った融和性を、もう一度蘇生させる色彩術となって、現代社会を変革できる光として生き長らえることができたなら、世界は随分違った様相をもつに至ると想像する。

「Filmy Nature」という「塗膜の中で生まれた自然」は、理念を内包した光の行為として、苔むす体験にもう一度近づこうとしているのだ。